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商法会所・常平倉を成功させた御用商人たち

連載企画:幕末の渋沢栄一~尊皇攘夷の志士に垣間見えた商売の才能~

静岡市出身の歴史学者・岡村龍男氏に寄稿いただいた渋沢栄一氏と静岡にまつわる書き下ろし連載記事をご紹介します。


第四回 商法会所・常平倉を成功させた御用商人たち

―江戸時代の駿府に培われていた高度な組織運営能力―


高度な自治を行っていた駿府の町と膨大に残された「駿府町会所文書」

静岡市役所から青葉通りをしばらく進むと、別雷(わけいかづち)神社という神社があります。毎年4月に行われる、江戸時代から続く駿府最大の祭典「浅間神社の廿日会祭(はつかえさい)」の出発点を、紺屋町の小梳(おぐし)神社と一年交代で務めている神社です。明治維新後に1万人を超える旧幕臣が大量移住に移住してきたとき、最もあわただしく動き続いていた場所がこの別雷神社でした。別雷神社は、江戸時代には雷電寺(らいでんじ・いかづちでら)という寺があり、駿府町人たちの町会所=事務所が置かれていました。俗に「駿府九十六ヶ町」と呼ばれる町のうち、幕府の仕事を請け負っているいくつかの町を除いた残りの町が、町の規模に合わせて1ヶ月から2ヶ月ごとに町の運営を行う「年行事制度(ねんぎょうじせいど)」と呼ばれる当番制の中心となったのが雷電寺でした。


別雷神社(静岡市葵区七間町)

年行事の当番が回ってくるのは、およそ3年半に一回であったことから、年行事の業務は細かくマニュアル化されていました。また、過去の出来事を参照するために蓄積された膨大な文書は、雷電寺の町会所内に備え付けられた文書箪笥に収納され、使用頻度が低いと判断されると土蔵に移されました。現在の公文書でいうところの、現用・非現用という文書取り扱いの考え方が、江戸時代の駿府町人の間ではすでに取り入れられていたのです。このように残された古文書は、明治維新後には静岡市、静岡県へ引き継がれ、現在は静岡県立中央図書館に所蔵されています。その中には、商法会所・常平倉に関する古文書も含まれています。


駿府町人を大混乱に陥れた旧幕臣の大量移住と文書廃棄

記録が残る18世紀前半から幕末までの間、町運営の「年行事制度」が休止したのは1807年(文化4年)に駿府の町屋約1900軒を焼き尽くした江戸時代の駿府最大の火災の時のみで、安政東海地震の時ですら年行事の当番制は続けられていました。


しかし、明治維新後の旧幕臣たちが駿府に移住することへの対応で多忙化した駿府の年行事制度はついに破綻し、萩原四郎兵衛ら特定の豪商が町年寄(まちどしより)として町運営を行う制度へと変容していきました。雷電寺の土蔵と箪笥に膨大な数が残されていた町運営の文書も、不要なものとして多くが廃棄されたり、町人たちへ払い下げられたりしました。これらの文書が残されていたら、より駿府の江戸時代の姿が明らかになったことでしょう。


ちなみに、明治維新後の旧幕臣たちの駿府移住に際して、駿府町人たちがまず着手したのは、彼らが泊まる場所を町人のそれぞれの家に割り振る事と、彼らが寝るための布団を駿府中からかき集めることでした。


商法会所の商品買い付けと入札

「駿府町会所文書」の中核は、駿府町会所の業務記録というべき「万留帳(よろづどめちょう)」と駿府町奉行所から出されたお触れ(命令)を書き写した「御触書帳(おふれがきちょう)」ですが、このなかには明治維新後のものも含まれています。1869年(明治2年)に商法会所が設立されてからのお触れを見ていくと、商法会所からたびたび取扱商品の入札案内が町会所に出されていたことがわかります。


商法会所が扱っていた商品は、駿府城内の建物で不要になった材木、水油(液状の油)や鮭、肥料、結城縞など多種多様でしたが、大部分を占めたのが米や麦でした。前回の第三回で紹介したように、米不足の静岡らしい、そして商法会所の存在意義に沿った商品だったと言えるでしょう。


米の生産地を見てみると、備中(岡山県)・豊前(福岡県・大分県)・常陸(茨城県)・摂津(大阪府)・上野(群馬県)・伊予(愛媛県)・肥前(佐賀県)・美作(鳥取県)・筑後(福岡県)・肥後(熊本県)と全国各地に及びました。商法会所が、これらの米をどのように買い付けていたかは定かではありませんが、おそらく東京や大阪の市場を通していたのでしょう。


常平倉への改称に対する御用商人たちの意見

前回紹介したように、静岡を中心とした御用商人たちの商法会所の活動に対して、静岡藩の上層部は反感を募らせていました。時を同じくして、明治政府が断行した版籍奉還(はんせきほうかん。土地と人民を藩から政府に還すこと)によって静岡藩が商法会所の運営に直接関わることが難しくなり、1869年(明治2年)9月に商法会所を常平倉に改称するとともに、渋沢栄一を残して静岡藩士は運営から撤退し、御用商人たちが運営に対して強いリーダーシップを発揮することになりました。


それでは、商法会所から常平倉への改称に対して、御用商人たちはどのような意見を持っていたのか。御用商人の代表であった萩原四郎兵衛が残した記録から、その内実を見ていきましょう。


「利益を上げることは考えず、人々の助けとなることを重視し、一時の繁栄ではなく事業の永続を望む」と、萩原たち御用商人は意見書の冒頭で述べています。意見書の本文では、「今回常平倉への名称変更を命じられた上は、商売にのめり込まないよう、人々の必要とする品を備蓄していこうと思います。米、塩、水油、その他静岡藩内で不足している品々をよく考え静岡藩外から買い入れておき、時を見計らって市場に流します。利益にばかり走らないようにするので、領内の人々の助けになると思います」と述べています。すなわち、常平倉は営利を目的とするのではなく、米穀や塩など藩内で不足する品を仕入れることが人々の助けになるというのです。そして、意見書の最後で「常平倉の仕事は大変重要なことだから、常平倉の運営委員は御用商人による選挙によって決める」ということを提案しました。このように、静岡藩側と対立していると思われていた御用商人たちは、静岡藩の中枢、商法会所の実質的責任者であった渋沢栄一と、基本的理念で一致したのです。


渋沢栄一と常平倉が静岡にもたらしたもの

このように成立した常平倉でしたが、肝心の渋沢栄一は常平倉がスタートしてわずか一か月後の10月には、明治政府によって大蔵省に勤めることを命じられてしまいます。結局、渋沢が駿府(静岡)にいたのはわずか一年あまりでした。明治政府からなかば強制的に貸し付けられたお金を運営し、静岡藩の財政を健全化させるために設置された商法会所・常平倉は、渋沢と御用商人たちの活躍によって大きな利益を上げました。その成果が明治政府にも伝わっていたことが、渋沢が大蔵省に引き抜かれる大きな要因だったのでしょう。


渋沢栄一が去った後も、常平倉は御用商人たちによって運営されました。先に紹介した「駿府町会所文書」の中に、「常平倉願書綴込(じょうへいそうがんしょつづりこみ)」という2冊の古文書が残されています。この古文書によると、静岡の各町がそれぞれ町内で困窮している人を調べ、常平倉に対して町単位で資金を借用していました。明治維新後の混乱によって、経営が傾いていた人々も多くいる中で、常平倉による貸し付けがどれだけ救いになったのかは想像に難くありません。


常平倉は、1871年(明治4年)7月の廃藩置県により静岡県に引き継がれましたが、翌年には廃止となりました。常平倉が担っていた業務は、当時勢力を強めていた三井バンクが引き継ぎましたが、これもわずか2年足らずで終了しました。


常平倉は、前身の商法会所の時代を含めてもわずか数年しか存在しませんでしたが、静岡の近代化に大きな役割を果たしました。それは、それまで静岡県内各地でバラバラに活動していた豪農・豪商たちを静岡藩のもとに総結集させることで再編成したことです。そして、渋沢栄一という経営の天才のもとで一緒に仕事をした御用商人たちの経験は、幕末から急成長していた静岡茶の海外輸出にも生かされました。まだ清水港が海外輸出港として指定される以前(明治0年代から10年代)、巴川の河口にあった清水“湊“と輸出港である横浜港を結ぶ海運会社を経営したのは商法会所・常平倉に参加していた元御用商人たちでした。


これまで、渋沢栄一と商法会所・常平倉について、渋沢と御用商人たちを中心にみてきましたが、商法会所・常平倉の恩恵を一番受けていたのは静岡藩領内の農村であり、農村の多くは茶を有力な産物として生産していました。最終回となる次回は、渋沢栄一と静岡の茶業について紹介します。


次回へ続く…


written by 岡村龍男


岡村龍男 プロフィール

静岡市出身。NPO法人歴史資料継承機構理事。駒澤大学大学院博士後期課程単位取得退学。静岡市文化財課、島田市博物館に勤める。現在は、静岡県内外で幅広く歴史資料の調査保存活動を行っている。


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