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渋沢栄一の出生

最終更新: 8月26日

連載企画:幕末の渋沢栄一~尊皇攘夷の志士に垣間見えた商売の才能~

静岡市出身の歴史学者・岡村龍男氏に寄稿いただいた渋沢栄一氏と静岡にまつわる書き下ろし連載記事をご紹介します。


第一回 渋沢栄一の出生

―豪農の家に生まれ、商売を覚え、攘夷思想に目覚める―


渋沢栄一と言えば、「日本資本主義の父」という経済人のイメージが強いのではないでしょうか。しかし、青年期の渋沢は、当時の同年代の若者と同じく、新たな時代を夢見た草莽(そうもう)の志士でした。そんな渋沢が一橋慶喜に仕え、明治維新を経て駿府・静岡の地にたどりつくまでの青年期を振り返ってみたいと思います。

渋沢栄一は、天保11年(1840年)2月13日に武蔵国榛沢郡血洗島村(はんざわぐんちあらいじまむら、現・埼玉県深谷市)の有力農民・渋沢市郎右衛門の長男として生まれました。


血洗島の近くには中山道が走り、江戸までは徒歩で2日ほどの距離でした。渋沢は、年齢的には大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允の維新三傑より10歳ほど年下で、明治時代の政治の中心を担った伊藤博文や山縣有朋と同世代。伊藤博文も渋沢と同じく百姓の家の出であり、両者は親しかったと言われています。

渋沢家は、藍玉の商売で財を成した有力農民でした。一時は、家の経営が傾きましたが、渋沢の父市郎右衛門の代に挽回を果たしました。渋沢は、少年時代から父に『論語』など中国古典の学習を課され、読書に打ち込むとともに剣術にも関心がありました。14歳なった渋沢は父から家業を学ぶように命じられます。父の仕事ぶりを間近で見ていた渋沢は商売が楽しくなり、力を発揮しました。

このように、渋沢は最初から武士だったのではなく、百姓の家に生まれたのです。そんな渋沢が「武士になろう」と思うに至ったきっかけは、血洗島の領主・安部(あんべ)家から命じられた上納金への反感でした。安部家は、石高二万石の譜代大名で、城は持たず血洗島村に近い武蔵国榛沢郡岡部(現埼玉県深谷市)に陣屋(役所)を置き、領域の支配を行っていました。

ちなみに安部家の先祖安部大蔵(あんべおおくら)は静岡市の最北部井川の出であり、江戸時代に「井川の殿様」と呼ばれた海野弥兵衛(うんのやへえ)家とは親戚関係にあたり、安部家はたびたび井川の龍泉院にある安部家先祖の墓参りをするために、藩士を井川に派遣していました。

渋沢栄一、武士を目指す

さて、江戸時代において、大名や旗本といった領主は領内の富裕な百姓や領主に対して、様々な名目で上納金を命じていました。渋沢は、この御用金上納に対する領主側の態度、すなわち金を借りる側が貸す側に対して横柄であるということに納得ができませんでした。

渋沢の晩年の著作として有名な『論語と算盤』には、実業家が百姓町人と卑下され、武家に太刀打ちできないため武士になるしかないと考えていたということが書かれています。渋沢は、単に武士になるだけでなく、国政に参加したいという願望もありました。その志が、渋沢を攘夷の道に進ませていきます。

渋沢は、同年代の若者の多くと同じく、攘夷運動によって日本を変えるという考えを強く持っていました。渋沢の実行力を高く、渋沢家の財力で武器を買い集め、横浜の外国人居留地の焼き討ちや高崎城(群馬県高崎市)を武力による奪取を計画したほどでした。

故郷血洗島村を去った栄一は、情報収集のため水戸に赴いた後、江戸で御三卿の一つ、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ、後の徳川慶喜)の用人であった平岡円四郎(ひらおかえんしろう)を訪ねました。渋沢は、一橋家とつながることで身の安全を図りながら攘夷の挙兵を進めていくつもりでしたが、渋沢の才能を見込んだ平岡は一橋家への士官を奨めました。

当初、攘夷を目指していた渋沢でしたが、攘夷は犬死につながると悟り、一橋家に仕官することを決めました。渋沢栄一が武士の身分を手に入れた瞬間でした。

フランス渡航と幕府崩壊

一橋家での渋沢は、農兵の養成に携わった後、財政を担当することを任され、早速能力を発揮しました。年貢米販売先の変更、木綿の専売制の施行、硝石製造所の設立の三つの施策で見事に一橋家の財政再建を成し遂げました。一橋慶喜が15代将軍となった後、慶応3年(1867年)にパリで開催された万国博覧会に慶喜の名代として派遣された徳川昭武(とくがわあきたけ、慶喜の異母弟)に付き従って渋沢はフランスに渡りました。

万国博覧会の後は5年間のフランス留学をする予定でしたが、翌年には慶喜が大政奉還を行ったため、留学することなく、しばらくフランスにとどまっていました。

その間、日本では戊辰戦争が起こり、各地で戦が続いていました。渋沢の従兄弟の渋沢成一郎や渋沢平九郎も、旧幕府軍の残党が組織した彰義隊(しょうぎたい)に参加した後、振武軍(しんぶぐん)という隊を結成し、多摩郡田無村(たまぐんたなしむら、現東京都西東京市)に拠点を置きましたが、飯能(はんのう)戦争と呼ばれる戦いで命を落としました。渋沢も、一橋家に仕えていなければ従兄弟たちと運命を共にしていたことでしょう。

失意の帰国から駿府へ

渋沢は、明治元年(1868年)11月3日に横浜港に入りました。1年10ヶ月ぶりの帰国です。江戸から改称された東京を経て、一度は故郷の血洗島に帰郷した後、駿府へ向かい12月20日に駿府城に登城しました。駿府に来た目的は徳川昭武の書状を慶喜に渡すためでしたが、慶喜に懇願され、そのまま静岡藩士として取り立てられることになったのです。

静岡藩士となった渋沢が直面した課題は、旧幕府時代に800万石を数えた石高から駿河・遠江・三河の70万石と、実に十分の一の石高となったにも関わらず、多数の旧幕臣移住者を抱えた藩の財政を立て直すことでした。そんな時に出会ったのが、当時の駿府を代表する豪商、駿府土太夫町(どだゆうちょう)の萩原四郎兵衛(はぎわらしろうべえ)でした。幕末には、駿府茶問屋の代表として駿府の経済界をリードした萩原四郎兵衛との出会いが、その後の渋沢栄一の商法会所設立の大きな契機となるのです。

次回へ続く…

written by 岡村龍男


西郷山岡会見の地(静岡市葵区伝馬町)

江戸無血開城に導いたことで知られる江戸での勝海舟・西郷隆盛の会見に先立ち、駿府伝馬町で山岡鉄舟・西郷隆盛の会見が行われた場所である。


岡村龍男 プロフィール

静岡市出身。NPO法人歴史資料継承機構理事。駒澤大学大学院博士後期課程単位取得退学。静岡市文化財課、島田市博物館に勤める。現在は、静岡県内外で幅広く歴史資料の調査保存活動を行っている。


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